その言葉の意味、様々な解釈を以ってして我々人類はこの2000年以上の時を過ごしてきた。
万物はいつも流転し、変化・消滅がたえないことを端的に表した言葉である。「物事には本質的な本性・我がない」という意味の諸法無我、涅槃寂静と併せて三法印とされているが、原始仏教は宗教ではなく哲学なので、仏陀によって説かれた概念は万物に通ずる概念としても良いのかもしれない。
ところで私は今、高円寺の業務スーパーで牛もつ…それも脂肪たっぷりの牛もつが目の前に置かれていることに苦しみを感じている。
なんというか物事の本質がない、ということは「人の個性」とされているものも実は存在しない、ということになる。その個性は確固たるアイデンティティとしては成り立たない、というよりもそもそもそんなものは確固たるものとしてあることは無い、ということになる。
ではなぜ人が個性を個性として認識するかというと、人は行動する生き物であり、行動というのは時間軸にして繋がっていくものであり、数秒前の自分の存在というのは確かに「認識」出来たのである。
数秒前の自分の存在が認識できれば、数秒前の自分がいかなる人間だったかを理解し、自分のことのように思ってしまう。連続した時間のみが存在を作っているとなれば、過去の自分と今現在の自分が違うものであっても別に良いはずなのに、存在そのものが揺らいでしまうのは何故なのか。
過去がこうなら現在もそうあるべきだ、と決めつけるものはない。現在がこうなら未来もこうであるべきでもない。ましてや何かの構造があったとしても、その本質などないのだから従う必要はない。世の中は限りなく縁起している上に空であるからこそ、認識を己のありたいようにあるべきだと考えるのは、時間軸における「現在」を強く意識した上で出す答えとしては妥当だと言えるわけだ。
何かに強く逆らっているわけではないのに、新たな答えを見つけ出すのは大抵その行いが「過激」であるからで。
本質的な存在を無視し諸行無常、諸法無我に心を委ね、ハイパーヘヴィメタルフットボールの如き姿勢を通じて涅槃寂静の境地に辿り着いた先に、我々は東中野を見たのではないかと思うのである。
こ、
こ、これは!?!?!?
ハァンおマンチしてたわ〜なんて言われて多目的トイレから手招きするミソカナパイセン待ち受ける東中野。
濡れる街角、流れるプールこと山手通りを滑り降りるようにして黄色い暖簾を潜った。てか逃げたつもりだった。
背脂を食べれば濃いめも食べればいいじゃない!!何も毎回アブラアブラしいものを食う必要もないのだ。
ワンタンケチりやがった己の財布事情を恨むしかない。
ズルッとやれば嗚呼…うむ!しょっぱくて出汁効いて美味しい!なんだかよくわかんないけどこれがんこの味だ!!なんだかわからないからこその感動をくらっちまった!!
濃いめ大正解…青唐辛子と食うと尚更ビンビン来る。
青いビール瓶をレロペロしながらラーメン食ってるミソカナパイセンが、外からこちらを覗いている金髪の怪しいアニキを見つけてこう言った。
「誰…怖い…やっぱ多目的トイレに行こ…?」
「あんな真面目に前半のキャプション書いてたのに、やれやれ、過去に囚われるというのは愚かなものだ。メモリーを失った街、阿佐ヶ谷に帰ろう。」
俺はそう答えて麺に胡椒をぶっかけた。
最後の一滴まで丼縁ディープキスぶちかましてしまったのである。
サクッと完食当然 #完飲制倶楽部 ゴクゴクブチカマしフィニッシュムーブ軽く会釈して退店。
泥酔かつ完淫しイキ果てたミソカナパイセンを多目的トイレに戻しつつ俺はそそくさと自転車に乗って帰った。
嘘偽りない事実のみを述べたつもりだが、
本質なぞ無いのであり、この世は空なのである。
それにしても美味すぎだわ花木!