何も無かった夏が終わろうとしている
何も無かった。あったようでない、ないようである。それが今年の夏だ。
夢でも見ているのではないだろうか。受け入れがたい現実が目の前を舞っている。受け入れがたい、わけだから当然それを現実と思うこともできず。
虚構、ただただ虚ろな現象として、目から流れる感情を拭う手すらもまるで嘘のように感じる。
指先の冷たさもなく、腕の張りも得られず、ただ突き刺す日差しが、あるはずのない四肢を焼くような熱さを実感するのみだ。
ここ数週間は、失ったものに対する実感のなさと、代替されるものを受け止めた後の虚無感に苛まれた。あれで良かったのか、というのは朝、もしくは午後になってから気づく。
インターネットを通じて得た音と光の感動すらも、怪しい。確かな生活を許すものすらも失い、来年、果たして肌であの熱狂を、頭であの情報量を処理できるのだろうか。
これはまだ不安と呼べるものでもなく、ただただ現実がそうあるものとして横たわっており、眼前に立ちはだかる壁としては非常に脆く儚い屑の塊として鎮座しているのみだ。
豊潤な山の空気と雨の湿気、大地を焼く太陽が起こす土埃と潮風に包まれることができるか、と言われれば俺はまだ、わからない。
堅い想いがあるかと言われれば、それもまだ、実感していない。置かれた状況をまだ理解していない。自分自身、こんな心境に陥ることすらも予想がつかなかった。
これが現実か、と思えど、俺は人生の懐古の時間に塗れている。こんなにも自分の過去が恨めしく思うこともない。様々なことに対する恨みや無力感、やるせなさを抱きしめて生きていかねばならないのかと思うと、ただただ辛い。
mixi…mixiって覚えてる?と、プリンスが「アルバム」という単位について言及したときのように俺、久々にその門を叩いた。昔の俺の文章を見ても、本質的には何も変わっていない。文体すら変わっていないし、毎日あんなに長い文章を打っていたのかと思うと、俺は矢張り言葉に囚われている人間なんだと思う。
ただ、その言葉においても自分の人生を再認識し、消化するには至っていない。30うん年生きてきてみても、どうしても語りたくないことがあったんだなと思わされる。
その事実に気づいたときに少し、自分が未だ「内面の吐露」についての余裕を持っていたことにも気付かされた。
何を目的とするわけでもない。世の中に受け入れられるための何かを、求めているだけだ。
10数年経っても変わらないものがある。
そういうものへの想いを抱きしめることは、俺にとっては何も苦しいものではない。抱きしめた瞬間に苦しみが襲ってくることはあっても、なにか尊いものが、目の前を横切ってくれることを信じているから。
北の大地に俺が求めたものは、それだけだったんである。
こ、
こ、これは!?!?!?
いつになっても食べたいものがある。敢えてメインストリームなものを求めるより、俺は俺のノスタルジーを認めてはその汁を啜ることを選ぶ。
北の大地の地下に咲く、可憐な味噌の華だ。
ズルッとやれば嗚呼…アタックの強いテレキャスターのようなサウンドが口腔内に響く。
嘘っぽく笑うのは俺自身だ。ねじり鉢巻の親父は至って誠実に、キラキラ光っている。
これこそが俺の札幌なんだ。街の中へ消えたくなる俺は、自然よりも地下街を選びたくなるのだ。
アツレキまくっている茶碗内!!!!!!
赤い季節到来告げて 今 俺の前にある。
気づいたら俺は夏だったから風景。
大満足#完飲制倶楽部 ブチカマしお会計して退店。
狸小路の端の秘密基地は若者で溢れ、アラブ屋さんは変わらず俺に夢を語ってくれた。
冬の出会いが夏の邂逅に変わる瞬間を待ち遠しく待っていたのである。