嫌いなものがある
納豆だ。
納豆だけはもう、生まれた頃からダメだ。実家でも納豆を食うのは母親だけ。母方の祖父は納豆を食っていたから、まあそういう文化の家だったことはわかる。
しかし、親父は食わない。親父の実家でも幾度となく飯を食ってきた。食卓に納豆が出てきたことは一度もない。某松系の電気屋だった祖父のルートで家電をある程度安く買うことができた祖母は、早くからパン焼き器を導入していた。そんな朝の食卓だから、納豆が出てきたことは一度もない。
物心ついた頃から食パンは作るものという認識があった。その裏返しとして我が実家は、基本的に米を炊く家庭であった。
話が逸れた。納豆が嫌いである。
ただし、納豆を食べる人のことは嫌いではない。納豆という存在が嫌いである。基本的に俺は政治的思想とか、何にも関心を持たない姿勢というものがどうも好きではなかった。本当に心の底から通じ合える者として認識する方は、そういうヴァイブスが合う傾向にある。
ただし、納豆を食う人間のことは嫌いではない。納豆、納豆が嫌いだ。
臭いがきつい。そしてあの粘り気だ。粘り気が本当にダメである。臭いも嫌だがあの粘り気がダメ。無理。山芋の粘り気とは違う。とろろ昆布の粘りとも違う。あのタンパク質の粘る感じ。アレがどうも許せない。
粘っこい人間も無理だ。無理。
粘着質な人間が無理である。
どうにも他人の人生のあり方を否定する有り様は受け入れがたい。余計なことを言わない。そう決めたのは最近のことだ。
色んな生き方がある。上手く生きれていないなぁ、と客観的に見れたとしても、他人である自分がやれ「ああしろ」「こうしろ」などと言うのは滅茶苦茶な失礼である。答えにたどり着くための道のりを示してくれ、と言われた場合は別だ。そういった場合には、その他人が答えを出すべく何かしらのご意見をお伝えする。それでいい。それでいいと思う。
ただしだ。他人の投稿にいちいち文句をつける奴。直接文句を言う様は耐えられない。俺は文句は言わない。「わかってくださいよ」と言う姿勢も、チラシの裏に書いとけという話である。お前のコメント欄にまできてぎゃあぎゃあ文句を言うもんじゃない。丼の縁についた汚れくらい気にすんな、お前はラーメン二郎を食うこともできない潔癖症か。
臭いのはまだしも、粘っこいのだけは勘弁だ。うるせっつうの。
俺が本当に文句を伝えたいのはレイシズムを感じる時だけである。
そんなことを考えながら、粘り気が出せなかったこれだけはどうも上手くいかなかったなと。自画自賛は味だけであり、なんというかノリと勢いだけでこんなもん作っちまったのを俺、若干後悔しているわけである。
こ、
こ、これは!?!?!?
山岸麺(緑)を水で〆、とろろ昆布だけで作った水に浮かべてみたが…粘り気は明らかに足りなかった。
塩を乗せてズルッとやれば嗚呼…確かに昆布の香り、味を楽しむことはできる。しかし…これは俺の腕もそうだし麺も悪かったな。
短い麺はつけ麺向きじゃねえな。
スープは豚バラ軟骨からとった豚清湯的なブツ。これは大正解。満来、カドヤのイメージを頭に置いてなんとなくそういうものを作れたのは嬉しい。
出汁ガラの豚バラ軟骨も軽く塩だれで煮てみれば完璧なトッピング。これだけは自分で自分を有森裕子である。
サクッと完食セルフスープ割キメてKKブチカマしフィニッシュムーブお片付けして休憩。
難しさを実感し課題を残したブツだった。
必ずリベンジすることを決めた。
しかし納豆が食えればなぁ…納豆トッピングとかしてみてえけどな。
てか納豆の話、何回目だよ。