箱の中にいる人間は、個人のパーソナリティが明確化される。
オフィスの窓から道路を走る車を見ていてそう思った。
それがリムジンだろうがバスだろうが、と言おうと思ったが、やはりここでは「おひとりさまの乗る車」に限定しようと思う。
区切られた空間にただ一人ポツンと居る。中に居るときには結局のところ、話す相手がいない、その空間に自分を見ている人間がいない、セックスするには最高のシチュエーションなのに僕の横には空気しか存在し得ないと愚痴をこぼすだけの状況である。
スカトロ趣味の場合は言わずもがなだ。
しかしながら、その箱に入れられた人を上から見ている人間は、その箱の中身をどう捉えるだろうか。
中身を
「人間」として捉えるならば、その人間のパーソナリティがくっきりと浮かび上がる。
「動物」として捉えれば生態を確認する。
「物体」と認識すれば腐るのを待つ。
「仇」とすればもう、それを「憎むべき物体」と捉えるのである。
パーソナリティを感じ取れば、私の感覚では、腐るのを待つことなどできるわけがない。
空間を切り取るという行為は情報の掻い摘みであり、隔離であり、それでいて保護である。
そう考えればやはり家族連れの車は家族を家族たらしめん属性を当てはめてこの世界から隔離するものである。その家族模様は様々であるし、人の数だけ家族の組み合わせがあるわけだから、その情報はさらに雑多である。
個人のパーソナリティまで見れるわけがなく、家族を切り取って考えればそれはすでに「社会学」の始まりである。
何が言いたいかというと、
ドイツ語で"Rahmen"とは「箱」を指すこともあるらしい。
私は自己のアイデンティティを遺憾なく発揮し己が己たらしめんと乳化たスープ、そしてフワフワトロトロになった豚、パッツパツの麺にクタった野菜が大量に盛られたその箱、とも言うべき丼と向き合うことにした。
ひさびさにロードバイクで空間を切り割き、私は風と一体化することで世界との関係性を深めた。しかし到着したヒバリーヒルズで待ち構えていたのはCR痴漢専用車両と名乗る「箱」そのものであった。ヤツにお土産を叩きつけて私は毛呂山町の方に敬礼し「お前のお土産はない」と呟いた。
切り取られたパーソナリティは実は脳内にも投影可能だが、その偶像は限りなく、己の想像の存在に近いものである。
そんなわけで今日も沖縄トークをしているうちに到着したこの一杯!
こ、これは…助手さん謹製クタの斜塔!
クシャトリア!!!!!!!!!!!!
NT専用MSと対峙してNT-Dモードを発動した俺はやはりラプラスの箱に導かれていたのか…!!
大量に入っているニンニクに心のイチモツがビンビンきた…!
クタヤサイを浸してアッ!うんめえ!!それだけに飽き足らず!!山を崩してとかなんだとかいってるうちにまた国宝のマシンガントークが始まった。話題はいつものデカちゃんである。本日も!サイコーにうまいど乳化ラーメンのおかずはK村氏の欠席裁判である。
ふわっふわトロトロの豚を並べてみれば、ヒバリーヒルズにカネの雨が降った。
ゆるーく天地返してズルっとやればしびれるひばり感…こいつはマジでダビーだ。美味すぎる…
うーん、麺量多かった。こりゃ最高だったな…
しかし、助手さんと国宝でここまでカラメの具合が変わるとは…やはり国宝のオペはドープでダビーなサウンドだ。
色々話しながらアレしていたおかげでラスト空丼撮影失敗だがサクッと完食フィニッシュムーブ軽くヤーマンして退店!!
その後はいい気分でチャリを漕ぎ、成蹊通りのコープで買い物をしている最中に事件発覚。
ヒバリーヒルズに戻れば楽しそうにブラックボックス(俺の財布)を持った助手さんに感謝し国宝にも軽く会釈して再度チャリ爆走。
2週間ぶりにチャリ漕いだのに…意外と筋肉痛は来なかった。