どんなに高尚な経験をしても
どんなに美味い飯を食べてみても
その時の満足感を超えていく概念が存在する。それは、死への恐怖。
あるよね〜、などと簡単に言っても、本当のところはわからないかもしれない。身近な人が死に近づき、もしくは身近な人が亡くなり、遥か遠くのテレビの向こう側にいる人が亡くなり、初めて思うものがあるかもしれない。
皆、覚えているだろうか。コロナ禍がコロナ禍として認識されたのは、おそらく志村けんさん、岡江久美子さんが亡くなった辺りだったと思う。
意図せず急に、その毒牙に蝕まれていったことが非常に悔やまれる。未だにその猛威は、海外では異常なほどの死者数と感染者数を生み出している。
悲しみに暮れつつも、我々は普段どおりの生活を余儀なくされ、その正体がわからぬまま「風邪」なんて言われたところで、俺は、よくわからん。よくわからん。
なによりも、人々のストレスの行き場がなくなっているのがいちばんの問題だと思う。皆、平然と生活しているように見えても、どうもストレスの溜め方が変わっているのではないか。
自分では気づかないような変化が、他人の目に見えるほどの違いを生み出しているように感じる。これは報道の問題もあるし、未知の脅威との戦いに対する途方もない絶望のようなものに感じる。
頼むから、ストレス解消のために誹謗中傷に走ったりするのはやめてほしい。
我々は生きる術について、知るしかない。知ろうとするしかない。専門的なことについては知る由もないのは当然だが、最善のアドバイスと判断をするのはその専門性である。
このコロナ禍においては私も例外ではなく、可成り疲弊した。もともと精神的に強いタイプではない。明らかに空気にやられ、人のヒリツキに影響され、身動きを取れなくなっていった。
そうした中で、自殺のニュースが頻発しているのが、本当に辛いところである。
死にたくなったことはあるだろうか。
おそらく、そういう心境に陥った人もたくさんいることだと思う。「死にてえ〜」というボヤキがカジュアルさを帯びてきてしまっている昨今においても、本当にスピリチュアルな痛みというものを感じている人はいる。
経験による気づきだが、自殺念慮というのは、何か大きな失敗をした瞬間に訪れるものではない。
多くの人にとってそれは積み重ねられるものであり、心の深いところにおった傷が疼くケースの方が多いと思う。もしくは、脳のおこりだ。双極性障害の場合もあるので、尚更軽々しいことを言うのは憚られる。
何が引き金になるかはわからない。「簡単に死ぬなんて言うな」って言うのはとても簡単で、死にたいという気持ちを理解しようとせずにいる人の発言ではないかと勘ぐってしまう俺がいる。
「親からもらった命を!」と言うのは至極当然で、それは確かにわかるのだ。だが、何故死にたくなったのか、何故それから逃れられないのか。それすらも理解されないようじゃ、肉体の主体である自己の精神は何も報われないのだ。俺は、悩んでいる人がいるのであれば、先に手を差し伸べることをしたい。
自殺者の遺族が「寿命だと思うことにしている」と言っているのを見た。そう思うことでしか救われない結果が待ち受けている深淵や、双極性障害に向き合うことへの難しさを嫌と言うほど感じられる世の中か。
俺はまだまだ諦めがつかないから死ぬことはないと思う。東京に出てきて6年経って初めてこんな美味いものを喰った。にも関わらず、こんなにも美味いものをまた食えなくなったり、その気力が湧かなくなるなんてまっぴらごめんである。
こ、
こ、
こ、これは!?!?!?
信頼たるラヲタ2人が口を揃えて言った。今、がんこととしおかに並びうるのはここくらいではないかと。
晴れた日の土曜。渋谷に用事があった俺は、千歳船橋から世田谷通りまで歩いてここにたどり着いた。
暑くてたまらない日だったことを記憶している。
まずは何もつけない麺をズルッとやれば…は!?な、なんだこのうまさは、、、
つけ汁からメンマ拾って麺とズルッとやれば嗚呼…バカ美味え…有識者が「がんこっぽさ」って言ってたアレがよくわかった。これ…もはや旨味しかないつけ汁じゃねえか。
麺をつけ汁につけるのが勿体なくなった。
その後はご想像にお任せする。
しかもチャーシューが美味すぎる。こんなにも美味いブツがあったとは…知らなんだ。
この日最大の失敗と落胆…それは大盛りにしなかったことであった。
つけ汁を直飲みで堪能しつつスープ割貰えば嗚呼…完全に虜になってしまった。
当然完食#完飲制倶楽部 ブチカマしフィニッシュムーブ軽く会釈して退店。
その後は渋谷にて#blm のデモに参加し、夜は#TBHR の配信ライブを視聴した。
この頃からかなり回復してきたのだが…今となってはまた色々もらいすぎて嫌になる。
辛くなったら勢得のことを考えるようにしている。