商売の価値とは
よく考えることだ。
これは金の話ではない。誰を相手に商売をするかだ。1週間経ってもまだむかっ腹が治らないので、そろそろ言っておきたいことがある。
「言語的については対応できません」と
「ウイルスを持っているから立ち入り禁止」
は、全然違う話である。
言葉に関しては簡単な英語すらも喋られないのなら、それはその時々で対応すりゃいいだけの話なのにも関わらずわざわざ言うっつうのはどういう了見なんだと思った。
もう一つわかりやすい例だ。ラーメン二郎について話しておく。
ラーメン二郎は店によってスタンスが様々である。子供が走り回る店や、どう考えたって4歳くらいの子とお母さんが二人で1杯を食っているところにも出くわしたことがある。
その反面、小学生以下のお子さんの入店を禁止する店もある。なんとなくこれは世間的に許されているものがあるな、と感じた。何故なら身体が出来上がっていないし、無茶させてまで食うものではない、という理由は読むことができる。
同じお金を払えばいいじゃないか、というものの流石にあの量をそのまま小学生に食わせるのは危険すぎるわけで。お子さんは将来大きくなれば権利を勝ち取ることができる。その前に死ななければ、またはそんなものへの興味を失わなければ、だ。
私は「わがまま」という言葉が好きではない。むしろ親の仇のほど嫌っている言葉であり、そんなん自己主張強いだけだから無視すりゃいいだろう、と思う反面、私はそういう奴とやり合う傾向にある。
だが「わがまま」という言葉は使わない。使うのは本当に強い(話が通じない)強敵が現れた時のみである。
幸い私にそういうコメントを送りつけてくる輩はほぼおらず、まあ嫌味言うために粘着するほどの価値もないよな、と俺は自己評価を血の底までぶん投げているわけである。
はたして、「鎖国」は義務教育において「良いこと」として教えられたのだろうか。俺がそこに疑問を感じるのは、直感的に良くないことと感じ取ったからだ。知らん間に置いていかれた島国の現在が今だと思うと俺は一生救われないだろう。
世界はつながっており、決して独立しない。干渉すれば戦争も起こる。それを考えれば何故「外国人」というデカい括りを使うのだろうか。
俺の友達にゃ「国籍は外国」なやつはたくさんいるし、アメリカ出身でがんこラーメンが好きだったナイスガイもいる。
間接的であっても外貨獲得は国益につながるんじゃないのか。
やるせねえ。そう思いながら割と異国の客が多い向かいの店よりも、そうたまにその向かいの店に入りてえと思ってしまった俺の人生を呪っている。今。
こ、
こ、これは!?!?!?
久々のこってり具合に肉飯のテカり…
どう考えてもデブ飯の極みである。
白い雪をかき分けてみれば数本の光。俺はそれをズルッとやって嗚呼と声を絞り出した。いつも確実にボーダーラインブチカマしてくれるからありがたい。
当然辛いのぶっかけ…は、主にご飯の方にな。
背脂もすくって乗せれば下手すれば都内ナンバーワンライス物になってしまうかもしれない。味噌っ子すらも危ぶまれる俺好みのブツだ。
サクッと完食フィニッシュムーブ軽く会釈して退店。
人の目を見れなくとも敬意は失わないという俺の動じないスタンスとして変えることはない。
ずっとそんなことを考えてばかりだ。
一部のアホな西洋人にアジア人が差別されてるのも見るけど、アレも許さねえからな