ラーメン富士丸神谷本店 『国産ブタメン+生玉子』
2017年4月18日(火)
息をして起きて寝て、物思いにふけって創作をして人と恋におちて歳をとりやがて死んでいく。
なんの実感もわかない言葉が並んでいる。
そもそも言葉とは何だ。
コードの破壊はもう十分に行い、言葉それぞれが孕んでいる持つ意味の多様性と妥協点の割り出した。つもりだ。そうしているうちに何らかの真性真実究極真理に到達することができる。
哲学者はそんなふうに思っているかといえば実際はそんなことはなく、漠然と「もしかして世の中とはこういうもんなんじゃないか」と思っていたりするだけだ。
確実に存在して揺るぎない真理なんぞ、大きくなりすぎた虚像でしかなく、それはいつの間にか自分の中でどんどん大きくなっていく風車のごとし。目標とした対象に近づけば近づくほど、心の中にある虚像は大きくなる。
人間の脳においては高性能すぎていることに問題があると語ってくれたのは初見のお客さんだった。「前に食べた時の方が美味しかった」という印象は脳の処理作用で偶像の巨大化が爆発的に進み、次の訪問時には「こんなもんか」と、虚像と比べることになるだけのはなしなのだ。
そう。目標という偶像はいつの間にか虚像に変わっていることがある。目標よりも方向性を見出せ、という至言をいただいたその瞬間から何か目覚めた感じがした。確かに納得だが俺には目標がある。偶像でも虚像でもなく、ただそこにあるものだ。いつなくなるかなんてわからないが、確かにそこにあるものを俺は何となく近づき難く
そこから2ヶ月も離れていた。
忙しさにかまけていただけだったのかもしれない。
方向性も目標も失うな。
身体に染み付いた癖や手グセは自分にフィットしたものだ。自分の本来やりたいものとは違うと断定して軽く扱うようなことはせずに、大切に、己の一部として、愛し、そしてそれに助けてもらうことが最も大切だ。
北区王子神谷に着いてからそんなことを、思っていた。感動のPP着、いつも17時半頃に店に戻ってくる吉田店主に久々のご挨拶。入店して軽く会釈。久しぶりだったしあんまりお腹も減っていなかったが、初志貫徹。全部コールwithニンニク別皿。おしぼりは手・顔を拭いた後にカウンターに敷くもの。沖縄の居酒屋でのビアコースターのごとく敷物にする。でなければ確実にズボンは洗濯機かクリーニング行きだ。
カウンターの上に現れる現世最強の異物。すでに天動説下の地球の淵の如く汁の結界が起きる。持ち上げ、そっと、口づけをしてゆっくりと下に降ろす。
これだ。この、どうしようもない食物繊維の塊が食いたかった。
その上に載せられたアブラが最高にニンニクの効いたしょっぱいヤツ。
これがあるからやめられねえんだ、ヤサイコール。
二郎に行ってヤサイコールなんて滅多にしなくなったし、富士丸好きに言わせれば味の薄まるヤサイコールも邪道かもしれないが、俺は手クセを捨てることなく楽しむと決めたのである。
ニンニクとアブラ到着を待てずに写真を撮ってヤサイを食ってしまう。
豚の発掘が完了した。
明らかに慣れた質量を視覚的に感じ、
我思う
これはきつい。
とりあえず麺が食える程度に別皿エスケープ。先にコラーゲン質の肉に食らいついて涙。美味い。
麺発掘即バキュームで予想通りの薄さ、というか麺が詰まりすぎててスープが染み込まないあの感じを久々に楽しんだ。俺はたぶんこの辺から笑顔が絶えなかったに違いない。緩みきった。
最高のエンターテイメントがここにあった。
鎮座ましますモスラの玉子。
孵化して二匹の幼虫となりて怪獣を倒す物語も俺は想像したい。
最後の豚一個が食えない。玉子も余った。それでも俺は諦めない。絶対に遅れない。どんだけ盛られても、食う。大盛りの食券買ってないし。無茶してないし!最後の一個と卵液は俺の口で踊り、「言葉なんかいらないよ」とつぶやいた。
そんな気が、した、ので、ある。
完食ステップオーバートーホールドウィズフェイスロック会釈して退店。
そのまま親友に「帰還せよ」と命じられ腹パンのまま18.5キロを1時間弱かけて爆走。
正直キツかったなー、マジで。
5月から再びバカのごとくお世話になるつもりだったが、結局その後は3度ほどしか行けておらず。
ニンニク無しで食えねえしな。そうなると金土日しか行けないのがやっぱり悩みどころ。
長すぎ。