「自由であること」を求める姿勢に対する理解は、どんどん失われている。
単なる反抗だったり、人様に迷惑をかけてもいいという話ではない、ということをまず最初に言っておかねば誤解されるというのも面倒な話だ。
あらゆる上での迷惑行為は禁じられ、抑えられるべきであると考える。それが物理的にも概念的にも人を傷つけることがあるなら、なおさらだ。
単なる逆張りの可能性もある。何を以てしてその行動が正しいとされるかは定かでない。
自分の意思が外的要因によって志向性を持たされ、苦悩し、喜びを得ている可能性は100%であり、何らかの意思行為における外的要因の介入率については、50%超えはくだらないと断言する。
「枠組みの中で自由になる」という考え方は、心身的には自由に近いものを得られる錯覚を生み出す。これを錯覚と書いたのは、自由というよりも「安心」が適切であると思う。
この世の中に於いては「構造」が可視化され、システムに組み込まれる人々と、システムそのものである社会が織りなした「世間」が発生している。
そのことを自覚しない限りは、個人における自由の追求はあり得ないし、そもそものこと「自由を認識すら出来ていない」状態に置かれたままである。
見えない力への絶対的服従は危険でしかないし、何よりも「無知性の極まるところ」を露呈して仕舞うことになる。こう考えたくもなったのは、中学校の時の卒業文集か何かで数人の書き込みに見られた「自由」という言葉であった。しかもそれを書いていたのは全員女性だったということも言及しておくべきかもしれない。
我々男性よりも圧倒的に縛られた構造下に置かれていることを本能的に察知していたかどうかは定かではないが、あの頃彼女たちは何を考えていたのだろうか。大人になり、従順なる下僕として首輪をはめられていないこと、それを俺は願っている。
反抗とは、己の自由という尊厳を守ることである。
なのに、それすらも失われたまま飼い犬のように首輪をはめ、鎖に繋がれているのはどうも気に食わない。釈然としない。
面倒くさいことを考えること、そして行動に移すことこそが真の自由の道であると思っている。
だから、29歳の誕生日に誕生日にわざわざ仙川くんだりまで来させられて自由意志を持ち大ラーメンのボタンをポチったように思われるアイツは、たぶん何かの壁を越えんとしていたのだと思われる。
こ、
こ、これは!?!?!?
久々に来たらしっかり並んでた。そうか、明日休みか…祝日だもんな。
鍋前の熱気とオーラに負けず大ラーメン選択。アブラよ…もうゲレンデのシーズン、終わってるぜ?
ヤサイ食って標高確認…それなりだ。安心した。
麺引っ張り出してズルッとやれば嗚呼…なんてスープの味が濃いんだ。野菜の旨味、油脂分の香り、そして麺の風味よ。俺はこれが食いたかったんだ!!
当然塩分がもうちょっと欲しかったんだがな。
ブタさん並べてみればブタ切れの日の法則発動しちゃってて最高の眺め。みっちり詰まった隕石セメントブタ齧り付けば、ここが仙川だと納得する。
ブタに胡椒、液アブラに一味。これ、テストに出るから。自らを自由へ解放せよ。
堪能した
サクッと完食フィニッシュムーブ軽く会釈して退店。
誕生日奴と代々木に行き、ひとしきりしゃべって遊んで帰宅。
鬱になって1年。
春ってそういう季節なんだなって今実感してる。好きなようで嫌いだわ、春。