やれやれ、僕は完飲した
とか言ってても許されるような人生がよかった。
ナルチシズムの地平の果てにある太陽までもが幻だったりするこの世界において、自己愛を飼い慣らすもしくは解放して他者愛を突き詰めることによって何か本当に心の底から世界との同一であったり溶け込みあったりするんじゃないかと思う。なんのネタバレもないから安心してくれ。
失言暴言に関する不快すぎるニュースが空間を飛び交うせいで我々はそれと頭をぶつけて衝突し、負のエモーションを蓄積していく。闇落ちとか言いながら元の属性がそもそも光であったかどうかも怪しい。これが「差別」というカテゴリで語られることか、と。はて、いや、なんというかもっと「差別」とかよりも単調でかつ誰にでもできるような罵倒であることから「侮辱」という表現が正しいと思うのだ。
「差別」は二項対立が起こった上でマイノリティ側が圧力を受けるような構造のことを言う。二項対立というよりも二属性の対立。
例えば「デ…」ではなく「オーバーサイズの人」は「太っていない人間」との対立であるが、「太っていない人間」は「生まれてこの方痩せ型の人」「ある程度中肉中背の人」「ちょいポチャの人」etcetcなど様々だが、「元々オーバーサイズの人」という人もいて、こういう人間が一番調子に乗る。生まれ持ったものではなく変化を望めるものであっても、「オーバーサイズを脱するにも、人によって努力量とその反映力が違う」ことも考えねばならない。「どうやっても痩せない」「もう2度と痩せることを期待できない」「ラーメン食いたいから痩せられない」など、様々な障害を抱えている我々Dの民にとっては死活問題である。
にもかかわらず我々は侮辱行為、もしくは明らかな二項対立による属性の付与が引き起こす差別に巻き込まれることになる。そのせいで我々は暴力と恐怖が対話のツールとはなり得ないことに気づけない。
Nワードはその属性同士でしか許されないコミュニケーションであるから、当然ながらDワードも同様だ。
人に備わる自己愛は生存防衛本能であり、エンターテイメントとして消化してしまうようになってはどうしようもなかった。ましてやそれが肥大した結果、よくわからんけど「国家」に自我を与えたり人を「神」として崇めたりするお前のような奴がいるから戦争がなくならないんだ!!ですよ
まあ要するに何が言いたいかというと。
デブがデブにデブって言うのは許されるってこと!!
こ、
こ、これは!?!?!?
爽やかな日曜 うららかホリデイ
東中野で降りりゃいつも通りの笑顔が出迎えだ。こりゃ参ったな。
ハイパー花木ルーティンによればクラシックの日だ!
ズルッとやれば嗚呼…恋、、、濃いいお汁が口腔内を飽和するダンク感。炸裂するクリスプ感。ゴクゴク飲めるブツ!っておーい!!
言いたいことは伝わるはずだ。
最高にハイ!ってやつだアアアアアアアア
肉ワンタンと生姜ワンタンぶち割れば新体験。肉ワンタンの椎茸多めなの嬉CY。
堪能した。
サクッと完食当然#完飲制倶楽部 ゴクゴクブチカマしフィニッシュムーブ軽く会釈して退店。
その後は阿佐ヶ谷の某シェフと神楽坂行ったり中野に行ってナマズを捕まえ(失礼)たりして楽しんだ。
帰りの記憶が危うかった。