珍獣は檻の中から世界を見ていた。
檻の中は世界ではない。そう言いたげな目をしていた。
4畳半のスペースには、置かれたものもない。置いているものもない。ただ、漂う空気が虚しく、カビ臭さと埃っぽさを纏いながら鼻先を流れていく。
水を運ぶ人がいる。電気を流す人がいる。どうもそれだけで世界は完結しそうなものだが、俺はそれ以上のものを求めた結果、手にした空虚が襲ってくるような感覚に襲われる。
頭の斜め上を影がよぎる。得体の知れない影は煩悩と言われるもので、素早く生まれては空気中に離散していく。基本的にその正体は裸のおねえちゃんである。私は浮かんだ思いを一つ一つ、指で弾いていき、最終的に残ったものを一つ獲得することを目標とする。が、「何も得られない」とされるものが、本来ならば煩悩なのかもしれない。
珍獣は檻の中から世界を見ていた。
SNSという名の小窓から、世界を覗くことを考えていた。
一体何が見えるというのか。合戦場か、核戦争終了後の荒廃した土地か。それともある種の「お花畑」か。
恐ろしいことにそれは、スカートの中かもしれない。
俺は読みやすい文章を書いていくことにした。
檻の中にいては、その小窓の先に存在していると思われるバーチャルな人格たちこそが、唯一の仲間となりうるからである。
世紀末感に漂うツイッターに比べ、Instagramは「お花畑」、ではなく「花園」だ。人々は無益な口論をしない。できない。そもそもがビジュアル重視であるため、そんな余裕も与えられず、あなたは写真の裏に隠された俺のキャプションのメッセージを読むことができない。
ビジュアル重視のSNSは存外に「自慢げ」と映ることもあるらしい。なんとなく、それを嫌がる人間も多いことは理解できる。
ただ、そこで諦めては他者の人生を許容する難しさ、ということもなかなか学べない気がしているし、過剰な自慢というものが人の感性を余計に刺激することにも気づけない気がしている。
スカートの中よりも、手軽に水着のおねえさんが見えるようになった世界のほうが刺激的で広大ではないか。
そうは思いませんか、皆さん。
例えば。差別の問題についてだ。
俺は、「私は差別をしたことがない」と断言する人間と
「誰しもみんな差別をするのだから、許されるべき」と声高々に宣う人間はほぼ同類だと見ている。
差別をしたことがない、という思い込みは非常に危険だ。外的な影響は必ずある。マスメディアは非常に偏向的な報道をするし、自分の立ち位置を誘導するレベルの力を持っている。
「差別をしたことがない」と「差別を意識したことがない」は、同じことであると考える。
そして「誰しもみんな差別をするのだから、許されるべき」。これは確かに間違いではない。
誰しもみんな差別をする。先に語ったように、我々は差別心を外的要因で植え付けられている可能性がある。
何かしら差別的な意識を持っている可能性は否定できない。よって、「誰しもみんな差別をする」は妥当。
ただ、そうならば何故、自らの差別が過ちであったということを認めることはできないのか。誰もがするのであれば、誰もが間違いうるということでもあるわけではないか。
差別したことを謝罪し、手を取り合って生きていくことができれば、
皆が生きやすい世界ができるんじゃないかな、と思うのだ。
この店は差別をしない店だ。なぜなら、常連でもない俺のタレ多めコールを聞いてくれるからである。
こ、
こ、これは!?!?!?
またもや俺は、通院ついでにこのブツを喰らった。武蔵野三鷹エリアにおける俺のマイベストラーメンは何になるのか。
俺には迷いがなかった。
天下一のおばちゃん軍団に俺は今日も「タレ多め」と伝えたのである。
天地返してみれば嗚呼…圧倒的ッッ!!俺は敢えてこう言うが、これはジャンクではないのだ。
あくまでこれはクラシカルな面持ちであり、余計な粘度、雑念を持たない生き方を提唱している。そうとすら思えてしまうのだ。
ズルっとやれば嗚呼…美味すぎる。目の前にある鉄格子が溶けていく。シルエットが消えていくのではなく、鉄がとけていくような熱さを俺は顔に受けている。
何故だ!これは極めてヴァーチャルインサニティな事象である。
後半は当然ラー油とお酢ぶっかけて堪能した。
サクッと完食フィニッシュムーブお会計と軽く会釈して退店。
ちんたらしながら帰ろうと思ったが、武蔵境で銭湯を見つけてしまい、帰宅からのトンボ返りをキメた。
この武蔵野のエリアに17年住み続けた男が埼玉に引っ越した知らせも聞くことになり、俺は一度一緒にここに来れてよかったと思う。
嗚呼男塾 男意気 己の夢を魁よ