何故だ
何故、そうした
その問いに対して「わからない」と答えるケース。あれ、「わかんねえ訳ねえだろ」と。ちょっと前までは神羅万象、どんな意識体においても「そんな訳ねえだろ」と思っていた。
割とマジでだ。説明できぬ理由などそうそうないし、行動における理由の裏づけや、思考の至る先のゴールもある程度明確に見えている気がしている。そもそも思考とは、ある程度のゴール設定のようなものがあってこそのものだ。ゴールまでのその筋道を立てるために行われる。ゴール設定の方法も、経験則や直感で行う場合、またはある程度外的要因にリードされるものと断定したいところだ。
思考をもとに起こる行動と、反射的に起こる行動があるのはわかる。その言い分もわかるのだ。おおよそ行動とは前者を表す言葉で、後者は「反射」とだけ言うのかもしれない。
なんというか、なんとなく、なんとなくやってみた、ということについても、なんらかの「期待」という思考があり、それを表す日本語として非常に便利なのは「思惑」ということになる。
思惑とは「やましさ」を内包する言葉にもなり得る。『何か企んでいたんだろう!』という指摘から逃れられなくなるようなことだ。そして、こういう考えは記憶に残らなかったりする。なぜなら「結論を導き出すには、そのためのファクターが少ない」と思われるからだ。 理解した。「なぜそうしたか」に対して「わからない」と言えてしまうケース。これはよく起こり、よく思考せず、そしてレポートとして残されにくいからだ。
故に、記憶に残らないのである。
たとえば、パスタを茹でる場合に、いざ茹でる前に塩の枯渇に気づいた際に、咄嗟に「醤油とか、塩分の強めな麺つゆとかならいいんじゃないか。和風パスタだし」と思いついたことは記憶に…あるじゃんな。
本当に、生きていることが嫌になる。
私はなぜ、鍋に2玉も入れてしまったのだろうか。
推測するに、俺の頭にあの悪い顔と、ウーロン茶と、厨房の奥から聞こえる呻き声が聞こえたような気がしたからである。
こうしないといけないと思っていた。お母さん、僕は心の中に悪魔を宿しているのかもしれません。
お分かりだろうか。これはエンターテイメントではなく、悪い意味での記録、表現、純文学である。
こ
こ、これは!?!?!?
ご覧いただいている皆様に申し上げたい。ヤサイがないから2玉食える、などと思ってはなりません。
体調も悪く、食い切れないことなどわかっていたはずなのに、なぜ2玉入れたのか。
そしてなぜこんなに豚がデカく、さらにはどうして自前のブタ(バラ肉の余り)まで足したのか。
その理由はわかっていた。ブタがあれば食べられると考えていたからである。
麺引っ張り出してズルッとやれば嗚呼…最近神保町で当たりがちだった麺たくさんヨクユデを再現して正解だった。うめえ!
美味すぎる…キリッと醤油が際立つスープが口の中で波打つようにげ、元気イッパイだぜ…ヘッ。
分厚いブタは真ん中で斜めにスライスしとけばよかったと思うほどのクソでかいブツ。そして俺の仕上げたブタ…勝ちゃあしねえがボロ負けってほどでもねえわな。
波をかき分け大海原でもがいた結果がセルフ攪拌乳化。こうなっちゃもう、俺の負けだとお手上げするしかねえってもんよ。
サクッと完食フィニッシュムーブかつザルに残した麺を洗い保存して終了。
もはや「足りた?」の幻聴連呼を受けすぎてトランスを起こすほどのアレであった。
残った麺は夕飯に食べた。どう食べたかは覚えていない。
この頃Gショックが起こり、一番精神状態がやばかったような気が。ま、今もあんまりなんだけどサ…
猫の画像ばっかり見てたら、おすすめ投稿からラーメンが消えました。