食う飯にも困る
なんてのは「家庭」という集団からよく聞こえてくるぼやきだ
聞こえ方次第で二通りの意味になる。「その日の飯代に困る」という場合と、「何を食ったらいいか」である。
私のようなまあそれなりに稼ぎがあり、全国平均所得とやらと比べればまあ少しは、というレベルの独身であれば、ぶっちゃけた話何不自由なく生活できる。高い飲み屋に行く必要もない、その日の汗を1パイントのギネスで流す程度である。電車を乗り継いで立石まで行き、そのあと梯酒をせずにラーメンを食って帰る。3,000円もありゃ「特別な日」を過ごせるのだ。
これはとてもありがたいことである。恵まれているわけで、単にこれは運が良いからこそこうなっているだけなのだな、と思わされる。
こういうご時世になってとても感じるのは、格差が見えないカラクリはどのようにして蔓延っているのか、ということだ。
日頃から私はInstagramやTwitterを道具として情報を収集し、見聞を広げんとしている。一方で代償として、差別主義者でかつ女性の敵を自ら買って出るような「自称」漫画家・イラストレーターの風刺画まで目に入れなければならないのは非常に辛いところではある。誹謗中傷ではなくあくまで批判・批評として述べるのであれば、モラルを欠いた愚行に対する訴えを退けるような意図を持つものはアートとして成立しない、と私は考える。あいトリが〜とか言うのは無しな。550万、耳を揃えてきっちり払うようにと願うばかりである。
そうした本当に不愉快なニュースに紛れてたまに出てくるのが、自殺や乳児捨て事件だ。
今、この「死に追いやられる恐怖」をなかなか感じ得ない、むしろかりそめのものであっても平和と感じる日本社会に身を置くものとしては、自分の身の回りで上記のような事件が起きる、という予兆はまずない。あり得ないとすら感じている自分がいる。
しかしニュースの先では実際にそのようなことが起こっているし、この実感から言い表せる自己の状態としては「ギャップを感じている」に他ならない。
そもそもの話だ。10万円もらえる話にしたって、自営業者への給付にしたってどうも、一番困っている人の声が小さい気がしてならないのだ。
「貧困」がキーワードにならないのは、貧困に喘ぐ人の声が小さく抑えられているのではないか。最近一番心に残っている言葉は「同調圧力社会」である。
どうもInstagramを見ても、皆さんの幸福度は非常に高そうで安心してしまうと同時に、それだけではない世界があることを想像しなければならない、と思うのです。
何を食ったらいいのか、と悩む幸せってありがたいことだと感じる。というのと、私はいつもその裏側に何があるのか、というところを考えてしまう。
そんなときにお金のないペケ研究職の男がうちに大量のラーメンを持ってきてしまう。
力が出ない私に彼が差し出したのは、なんとおつまみチャーシューであった。。。
そりゃ私が調理くらいしますわ、と。
こ、これは!?!?!?
お誂え向きな丼が使えなかったのは残念だが、メンマとナルト、そしてネギさえのせて仕舞えばみたかっぽくなるから驚きだ。
そりゃ言われなくても生玉子くらい落とすだろカブロン。
麺掘り出してズルっとやれば嗚呼…どっからどう食ってもみたかの蕎麦っぽいボソ麺だ。スープもみたかだ。そりゃそうだみたかさんで買ってきてもらったんだからサ…
やっぱ家でしかも麺多めで食うとウメーな。
大変ギルティーなことに、刻んであったニンニクなども入れて仕舞えばステイホームの楽しみも増えたというもの。
堪能した。
サクッと完食フィニッシュムーブ軽くお片付けし、持ち帰り代を精算してチルタイム。
ブツを持ち込んだ研究職は「妹の部屋に親父が来てるから迂闊に外に出られない」などと意味不明の供述をしており。
元アフロはサクッと食って帰っていった。
みたかの持ち帰りとても良かったなぁ。
油そばも食べてみたかった(どサンピンオヤジギャグ)