月に一回くらいのご褒美は重要である。
初めはそれがラーメン二郎だったはずだ。
上京したての頃は本当に金がなかった。
たまに、若いのにも関わらず「お前らどっから金が湧いてるの」と心配になる人もたまにいる。宇ち多゛なんか2,000円ありゃ大贅沢ができるというものだから、私などは本当にお財布に優しい男だと思っている。
そんなふうに思いながら俺は昨日も宇ち多゛に行った。片道1時間をかけてだ。気の合う仲間と毎回遊んでいても、刺激と知識の共有があるからこそ空虚なものだとは感じない。割と文化的で最低限の生活ができているな、という感じはある。が、それが「麻痺」である可能性も否定できない。
金を稼いで偉くなったと勘違いしているのではない。むしろ、いつまでこの生活を続けることができるのだろうか。そういった心配は、ある。
自分の中には「金を稼ぎたい」という目的、感情が一切ない。
今でこそそれなりの年収、とはいえそんな車を買って夜中に富士丸に行くような感じでもない。どちらかというと行動によって運を引き寄せたい、という思いはある。だがそれを阻害するものも多々あるし、そういったものを無視できない、看過することができない自分の弱さにも辟易している。
自分以上の貧困にあえぎ、「自己責任だ」と吐き捨てられた人たちの運命は、どこに向かっているのだろうか。
生きることさえ大変だと思うのに、「馬鹿」というレッテルを貼られることほど苦しいものはないと思う。まあ、やっぱり馬鹿は馬鹿だなともう瞬間もまたあるわけなんだけど。
そんなことを考えながら、俺は月一の楽しみと設定した「トンカツを食べる」という行為を、「日常の1ページ」や「ルーティン」ではなく、自分にとって最もご褒美になるような選択として仕立て上げるのである。
最近は午後、毎日体調を崩している。そんな状態でも俺は心の栄養摂取のために、歩いた。ギリギリかも、と思いながらも店内に滑り込んで食券機の前に立ち
南無三。一言つぶやいて俺はラーメン4杯分の食券1枚を買った。
こ、、、
こ、、、これは!?!?!?
見たまえこのボリューム感。
余熱によって時間とともに温められるも、中心部はまだまだ赤くて瑞々しい。むしろその温かさが赤みに現れているような感じになる。
俺はこういうご飯が好きである。
なんて言ってる暇もないくらいに俺は岩塩をぶっかけた。うめえ…最高にうめえトンカツじゃねえか…
矢張りこのブツは脂身のお刺身だ。お刺身はわさび醤油で食う。それは日本の心であり、全人類の喜びになりうるものだ。
中国の人にも韓国の人にも食べてもらいたいと思うものである。
とかブツブツ言ってるのもいいが如何せん美味すぎるのと脂で脳がとろけそうになってくるのだ。俺は目の前のトンカツを無心のふりをして食らう。どうやって食えば一番美味いか。
塩、わさび醤油もいいがソースも忘れたくない。無心のふりをしすぎたせいで撮り忘れたが、俺はこのトンカツにたっぷりと辛子を塗りたくるのが最高に好きだ。
どれだけ食っても減らないお椀飯の上には何度でもトンカツをのせたくなる。山が崩されていくことに、時間と労力を感じる。食は体力だ。俺はそれを失わずに生きたいのである。
堪能した!!
トンカツだけにサクッと完食フィニッシュムーブ深々と会釈して退店。
御茶ノ水まで歩き、香りを反芻し、胃の中で暴れる脂をなだめながら俺は帰路に着いた。
美味いものを食うと気持ちが落ち着かない。完全にロックトランスフォームド状態だ。
トランス…フォーメーション…?
電車の中で俺以上に落ち着きのない人は俺の目にも入ってくる。アルパチーノ似のおじさんの一挙手一投足を見逃せない人生は今後も続く。