他人にどう見られるか
ということほどどうでもいいことはない。
はずだ。
自分の生きたいように生きれば良い。思えばずっと、そういう気持ちを拗らせてきた。
自分は生きたいように生きてこなかったんだろうか。寝てたまに起きて飯を食って、それで幸せを得られる人もいるだろうし、家族と過ごすために汗水垂らして働くことを幸せと感じている人もいるだろう(葛藤と戦っている人も当然いるだろう)。
家族の介護に疲れてしまっている人もいれば、親や家族が築いた莫大な遺産で左うちわの人もいる。最後の人は除いておこう。
生きることに苦しみを感じている人には、宗教より哲学をお勧めしたい。
宗教とは信仰対象を与え、それによって世の中の真理を仮定していくものである。信じるものを与えられるわけだが、哲学というのはさらにそれを突き詰めるものである。
真理とは仮定であり、未だにそこにたどり着くものは、ない。存在していないと思われる。
たとえば存在論の発想で言えば、世界が先に存在して自分が産み落とされる。その世界の存在は確かであり、自分に先立つものである。
対して観念論の考え方で言えば自分の存在が先立つのだ。自分の見ている世界こそが世界であり、自分が中心にある。デカルトに立ち返ってみれば「我思う故に我あり」となる。
かといってこれは決してファシズム的な見方によるものではない。し、ファシズムにつながるものかどうかは、その思想の持ち物による。
どうにも自身の思い通りにならない現象というのは起こる。これを何かのいたずらとしてしまうのは早急であり、脳のバグであるとすれば、脳はすでにそれと独立して存在しているので、観念論は成り立たない、といった結論を導くことができる。
しかしながら、自分が世界の一員であり、ただそれの構成員として大きなものに従わねばならない、とされてしまうのは如何なものか。世界においても独立した個人は成り立つべきで。なぜなら我々は自我、観念を持っているからだ。
デモクラシーのあり方というのは社会における個人が尊重されるものだ。何も文句がない人間は幸せなことだし、そして他者の存在を無条件に肯定する聖人か、はたまた危機になって慌てふためく愚か者かのいずれかである。他者の存在を認めつつ己の存在と権利を尊重しなければ、これから人々の自我は足元から崩れゆくだろう。
などと申している間にたどり着いた日曜午後のラストロット。
私はビビった。そりゃーもう、ビビったのである。
こ、こ、
え!?こ、これは!?!?!?
これはwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なんて麺量だwww
ラストロットだからこそ味わえるマジックがここ目黒では炸裂するというのか!!
私は存在というものの尊さとそれに知り合えた時の喜びに感謝をし、改めて己の自我との親和性について確かめ、愛し、たまに思い出しながら生きていた。
しかし自我の限界を超える現象が起きたのだ。神は確かにそこにいた!
私の脳がバグった。そう勘違いしたと言っても過言ではない。
醤油ぶっかけヤサイとコラコラアブラを堪能して食えばいつも通りなダブル豚の細切れ、そして麺のお出ましだ…麺多いぜ…
一口すすればアアッ!!ブレかなんだか知らんが若干細く、あの目黒っぽい香りがない…私は名物助手さんの引退を勝手に嘆きつつもいや、この麺うめえな…なんておもったわけである。いやマジで!マジでね!!
名物助手さんが引退し、正助手のポストは空いていると聞いたがこの日いたのは某街道系の方であった。
というわけでちっともちっとも減らない無限の麺を相手にしていればもう、全く暇しないというものだ。
ブタなんか広げてちゃんと工数計算(麺:ブタの比率計算による適切なバランス感覚を保つための計算)を行いつつまあ結局胡椒ぶっかけてどんぶり勘定だよね。
頭まで故障しちゃってバカじゃねーのってね。
うまい!このうまさメジャー級。
きっちり腹パンになりながらも完食フィニッシュムーブ深々と会釈して退店!!
名実ともにラストロット、最後の客であった。こんな経験なかなかねえな。。。
翌日月曜から疲れすぎて完全にバッドモード。