人との縁故とは、大抵が偶然に偶然を重ねては起こること。
必然性のある出会いだった、などというものだが人の運命などは思い返してみれば全て決まっているものだったのだ、と思わされるのが常である。
たとえば今、貴方がこの投稿を見てどう思うか、ということは既に決められたことのように起こり、スルーするかどうか、いいねするかどうか、フォローするかどうかは既にアカシックレコードとして刻まれている。
みたいな妄想を、あくまで妄想をしてみると、この世の中は存在論的に「世界が先にあるもの」として存在していることを「認識している」という意味において自分が先にいるような感覚になる。
どういうことかというと。そういう「事前の認知」を軽く超えていくような想像がない限り、世の中はつまらないものになっていく。ゲームの攻略本は正確で、受験勉強なんかと違ってただただお手本をなぞるだけの簡単な遊びだ。だがわたしはそれを以ってして記憶力を手に入れた感覚はある。囲碁や将棋の至難本もそういうものにあたるのだろうか。
わたしは真理について申し上げたい。生活感を醸し出すツイッタラーはツイッタラーとして成り立たない。あれはエンタメだ。
インスタグラムは基本的に過去の記録であり、そして画、文字から多角的な情報が連続して得られる。文字情報がメインのTwitterは、あくまで人の香りがしないものが好まれるし、怖い。文字情報だけでは世界は狭くなる。予想のついた文字列はわかりやすいものだし、その文字列から想像する世界は、自分自身の脳内の情報でしかないのだ。
外界にある色彩感覚の美しさを享受できるインスタグラムを好ましいと考えるのが、俺のスタンスである。
と、いうわけで
脂ばっかり食ってる俺から一時的に離れ、しかも久しぶりに会う先輩ととんかつを食いに行くなどということになれば、わたしは白身の美しさよりも朱く瑞々しいものを目の前に置きたいと思うしかないのだ。
こ、
こ、これは!?!?!?
わたしの人生においてヒレカツなどというものが最優先事項に来ることなど今の一度もなかったが、やはりこの美しき棒を見て仕舞えば浮気な女に後家サバイバー。
ウホッ!赤い!赤いぞ!なんて鮮やかな赤だ!
そこにかけますはまず岩塩…
うめえ…極上のお刺身ふたたびだ。
そしてお醤油…美味すぎるだろ…しっかりと豚肉を感じる、旨味が凝縮されたこの肉は最高のブツだ!!
キャベツと共にソースぶっかけーのカラシつけてので堪能した!流石に脂身ほどご飯は消費しないな。1杯で満足できたのは経済効果も高いぞ。カロリーもな。
サクッと完食軽く会釈して退店。
銀座まで歩き、うちの街一番のギャングスタが間借りするスナックにて飲酒。
ルートビアまずいとか言われながら美味しく飲んだ俺マジ救世主。